第四週 総括

【寛容をめぐって】 

アメリカの大統領選で、トランプ氏が当選したとき、市民が懸念したのは、彼の移民政策でした。アメリカという国そのものが歴史的に移民で構成されてきたのに、いまさら移民を排除していくというのは、国家が掲げてきた理想を反故にすることではないかと。 

続いてフランスの大統領選がありました。フランス第一主義を掲げるルペン候補(以前は極右と批判されていた)に対して、最終的には若手の政党に所属しないマクロン氏が当選しました。彼が掲げた主張は、フランスが、フランス革命以降掲げてきた、フランスの市民社会の良識です。 

その良識的な部分が大切にされたことに、国際社会(特に知的・文化的階層)はほっとしたことでしょう。フランスは芸術・文学・哲学の宝庫として世界で機能してきました。その中枢にあるのが、渡辺氏のような寛容の考え方です。 

さて、それは余談として、今回、16世紀の宗教改革の中での迫害問題にかかわって、渡辺氏の「寛容論」を見ていただいたのには、理由があります。それは、来週に見ていただく17世紀が宗教戦争の章だからです。 

 そして、同時に覚えてください。今月は、原爆、敗戦と、私たちが平和を祈らなければならないときです。宗教改革400年は、ヨーロッパは第一世界大戦の最中でした。日本もアジア侵略戦争に向かっていきます。戦争はいつの時代にもありました。その戦いを支配しているのはこの世の欲ともいえるでしょう。しかし、真理の追究がそれに利用されることが多々あります。 

 ヤン・フスの「真理は勝つ」との標語は、迫害にあって無抵抗に殉教していった彼の最後の言葉です。
真理は勝つ。同時に、「愛は勝つ」です。ウェスレーの「公同の精神」(教会は互いを受け入れ一つとなるべき)の説教を読みますと、最終的に公同の精神は、愛だといっています。 

 寛容論が問題とするいくつかの課題を以下に箇条書きにしておきます。 

 

  1. 教会は、自らの真理理解に固執するとき、寛容精神を失う(歴史的に証明されている)。 

  1. 教会は、社会的な権力に利用されたとき、寛容精神を失う。 

  1. 教会は、社会的な責任を担うとき、社会を攻撃してくる非寛容なグループに対して、非寛容な態度をとらないと、自らが属する社会を守ることができない。 

  1. こうしたことが、17世紀の各教派の正統主義の対立にも、また宗教戦争に現れる。 

  1. 最終的に、教会・あるいは社会が寛容を学ぶのは、啓蒙主義の台頭による。 

 

寛容論には、聖書の愛の考え方、啓蒙主義的な理性の考え方、歴史に対する反省と様々な角度があります。ただ、少なくともキリスト教そのものが寛容を説いている宗教であるのに、非寛容な歴史をたどってきたということは、事実として受け止め、どのように考えるのかに一つのチャレンジをしている文章として、渡辺氏の文章は「有名」です。 

 これをもって、第5週の学びへ進んでください。(第5週は、ディスカッションは夏休みとします)

主の平和がありますように。