聖餐 総括
2017年 08月 1日(火曜日) 07:57 - 講師: 藤本 満 の投稿
 

●神学的に整理すると 

――ちょっと難しいですから、読みたくなければ「●神学的に整理すると」はスキップしてくださって結構です。 

 

難しい議論も、簡単な感想もありがとうございました。普段あまりこだわりを持っていなくても(神学的・実践的に)、少し考えることができたら、大いに対話の意味はあったのではないかと思いました。 

 

私は聖餐の物素とキリストの身体について、どのように理解すべきか、神学的に論じても意味がないのではないかと思っています。それは、聖書のなかでそのようなことは論じていないからです。むしろ、幾人の方がおっしゃっていたように、宗教改革がカトリック教会の実体変化から抜け出る過程の中で、論ぜざるをえなかった要素がありました。 

 

しかし、実は、この「肉と霊」の関係は、マールブルク会議で決裂したように、その後のプロテスタント神学を二つに分けることになります。 

 

・ルターはイエスという人物において神性と人性が同時に混在していたことから、神なるものは肉なるものと交わることができるという前提で論じました。 

 

・ツヴィングリやカルヴァンらは、その二つをいっしょにすることを避けました。カルヴァンの聖餐論をよく「extra calvinisticum」(エクストラ・カルヴィニスティカム)ということばで表現しますが、神なるものが肉なるものに、入りきることはない。三位一体の神の神性は、イエスという肉なるものに入りきれず、外に存在すると。 

 

これは後の神学的な考え方にも大きく影響します。たとえば、聖書の御言葉に対する考え方に現れます。人間の言葉の中に、神の思いのすべては入りきらない。よく現代神学者のカール・バルト(カルヴァン研究者)は、聖書のことばは、ある瞬間に、神の言葉に「なる」と言いましたが、そのわずかな接点がエクストラ・カルヴィニスティカムを象徴しています。 

 

逆にドイツ観念論の頂点にいるヘーゲルの最終文章は、聖餐論です。彼は、この世界は神のガイスト(霊・精神)によって作り出される。そのガイストが浸透していく世界を19世紀ヨーロッパは目指すべきだと考えました。カルヴァンなら、この世界という肉と神の霊がそんなふうに交わるわけがない、と考えるでしょう。 

 

つまりこの二つの考え方の違いは、17世紀の章の最後に書きました、プロテスタント文化のあり方まで決めていきます。聖餐論が神学の要となったというのは、論争の対象となっただけでなく、肉と霊、この世界と神、との関わりを論じるときに大切な役割を果たしたからです。 

 

●聖餐をどのように考えるか 

それは論理ではなく、多分に体験が左右します。ですから、皆さんそれぞれが聖餐において何を実感したのかが、かなりの程度において聖餐の「神的性格」を決定します。ルネサンスの人(ツヴィングリ)は、聖餐の恵みをあまり知りませんでした。ルターは中世の人ですから、とっぷりと聖餐中心の礼拝の大切さを知っていて、それを聖職者だけでなく、民衆に分かち合うことを目標としていました。 

 

牧師となって10年目ぐらいに、教会の姉妹が癌になりました。最寄り駅のそばで美容室を経営していて、私は毎月そこでヘアカットをしていました。とても純粋な姉妹で、お客さんに伝道し、お母さんを導き、祈祷会にもよく足を運んでいました。 

 

最初は肝臓癌、それから脳に転移をしました。病院も変えました。ICUに入ってお見舞いに行ってみると、ご自分の死を意識したのでしょう。大変な不安を告白されました。私は、携帯電話の番号を教えて、いつでもかけてください、と申し上げましたら、なんと朝の3時、4時にかかってきます。ICUは24時間変わらぬ環境ですから、時間の感覚がわからないのです。これにはさすがに疲れてしまい、祈り求め「聖餐を持って行こう」と導かれました。 

 

病室で聖餐が終わった後、私はご主人と話しをしていました。そのとき、姉妹がぼそりと「これでいいのですね」と家内にいいました。これでいいのです。地上における最後の聖餐、次は天国における主の食卓にあずかります。これこそが、私たちのいかなる努力・信仰にまして、Fさんを天国へと送り出す保証です。キリストの血潮の赦しと、永遠もいのちを食したのですから、安心して行きなさい。私たちも安心して送り出します。 

 

姉妹は平安を獲得しました。しばらくして天に召されました。これを機会に私は、洗礼を受けている方なら、どんな方にも聖餐を運ぶようにしました。洗礼を授けたら、その場で聖餐にあずかることもあります。 

 

永遠のいのちを実感し、キリストの十字架を我が身に受けたことを実感できるには、これほど尊い儀式はないのではないか、と。この確かな「実効性」を主は与えてくださり、教会はそれを主の定めとして受け取ってきたのではないか、という素朴な結論です。 

 

私は神学的にはカルヴァンとルターの折衷です。カルヴァンのようにそこにはキリストの霊的な現臨がある。しかし、私たちが天に挙げられるのではない。十字架のキリストが天から降りてきてくださり、信仰をもって受ける私たちを包んでくださると。 

 

●こだわり  

それは教会の現状です。教団の式文を新たに改訂するときに、当時神学生であった兄弟から言われました。「洗礼を受けていない人は受け取らず……心の中で」を式文の前の方に持ってきてください、と。初めて聖餐式に出席して、これから何か素晴らしいことが始まると思っていたのに、式文の最後で、あなたはダメです、と言われることは大変なショックであると。ダメならダメと、初めに言ってくださいと。 

 

なるほど、それで現在のインマヌエルの式文では、最初の断り書きに入るようになっています。どの教会で洗礼を受けた人も、みな招かれている。しかし、これはイエスがイエスを信じる者に命じられたもので……。 

 

私の牧会する教会は、多くの未洗礼者がいます。奥さまと共に家族で出席したり、その逆であったり。共に礼拝を守っているのに、その部分だけが強烈な疎外感になります。この疎外感が良い、という人もいます。それが聖なることの象徴だと。でもそれは、内の論理であって、外の人には疎外感としか感じられないのではないか。 

 

それで聖餐式は年に4回です。そこではなるべく、罪の赦し、永遠のいのち、贖い、キリストのうちにとどまること、主と共に食すことのすばらしさ、直接的に聖餐に関わる説教をしています。 

 

さて、こんなこだわりに説得力があるとは思っていません。これはあくまで、私の考え方です。ですから、それに左右されずに、ぜひとも恵みの機会を逸することなく、それぞれの方法で味わってください。 

 

●もう一つ  

ウェスレーは大切なことを言いました。頻繁に聖餐にあずかると、そのありがた味が薄れるのではないかという質問に反論しています。それは俗世間のものはそうでしょう。しかし聖なるものに頻繁にあずかることは、それは対する崇敬がますことを意味します。あずかっているのは、俗物ではないとのです、と。 

 

長々と失礼しました。みなさんが互いに対話していることが、とても大きな励みになりました。 

 暑い中ですが、これをもって第3週は締めくくり、第4週の学びに入ってください。お祈りしています。

*なお、第5週は、ディスカッションも夏休みとさせて頂きます。

藤本満