第1週、お疲れ様でした。 

 長いテキスト範囲と、漢文調のPDF資料をよくお読みくださり、動画も視聴してくださり、そしてディスカッション課題に取り組んでくださって心から感謝致します。 

 第三週の初めのビデオに、ルターがよく用いた表現を二つ取り上げて(神の御前に、神を神とする)、聖書と結びつけて彼の福音理解を説明していますので、お楽しみに。 

 ここでは、ディスカッションの総括としてもう一つの表現を取り上げます。 

それは「extra nos」。ラテン語でextraは外側、nosは私たちです。よく十字架と復活は歴史的・客観的事実であるとの主張をしますが、これはすなわち、イエス・キリストの出来事は、人間の内側の精神性や修練ではなく、私たちの外に、具体的に起こった神の出来事であったという主張です。 

 ルターは、自分の内側にある最善も、悔い改める心の感覚も、自分の努力も涙も、聖なる神の御前にほとんど意味がないと確信しました。 

自分の外で起こった1500年前に、史実として、出来事として確かに起こったキリストの十字架と復活に「信仰」によって自分を結びつける以外に救いはないと。(ルターの味わいとして、テキストの243~44頁も参照)。 

 このプロテスタントの信仰が大きく崩れる時期があります。それが19世紀後半に始まるドイツの自由主義神学でした。まず聖書の史実性が疑われます。最終的にはキリストの復活は弟子たちの作り話だと。もちろん,そのように唱えたドイツの学者はまじめなキリスト者たちでした。しかし彼らはこのキリスト教内部の狭い見解を、なんとか「普遍化」しようとしました。教会・宗教を越える普遍性です。 

 キリストは神に通じる精神(ロゴス)を最も顕著に宿した人物です。世界を創造し、世界を保ち、世界に一つの理性を与えていることば(ロゴス)――ヨハネの1:1「はじめにロゴス(ことば)があった」――が私たちの内なる永遠性に触れたとき、私たちもまた天の父につながる存在となる。それによって情念から解放されて、私たちもまたキリストのようになる、それが救いであると。 

 この普遍化を目指すドイツの自由主義神学の中で、ベストセラーになったのがハルナックの『キリスト教の本質』です。これは、植村・海老名論争の時代に翻訳されます。海老名はハルナックに刺激されて、このような立場を採ったのではなく、彼は真実に儒教的な罪から解放されることを求め、強烈な体験をもって、聖霊に惹きつけられて、キリストの霊とひとつとなり、世界の理想を見いだしました。 

 彼が牧会した本郷教会は、帝国大学のインテリが集まっていますから、彼らの間に普及していきます。ルター的な悔い改めと救いが、ギリシャ人の知恵と比すると「愚か」でした。そうするとキリストの十字架と復活をつかむには、「信仰」以外にありません。逆に、海老名やハルナックのキリスト教信仰は、ギリシャ人の目に愚かに映るのではなく、ギリシャ人の目にも理性的に映りました。 

 しかし、必ずしもそれだけではないでしょう。海老名の本郷教会の方が、植村の富士見町よりも人が集まったと言います。それは先の時代精神に応えたというだけでなく、実は魅力的に伝わっていたのかもしれません。 

 スタッフの大津姉が、現代、キリストの福音をより大きな視点で魅力的に語るN.T.ライトの語る「王なるキリスト」は資料325頁の海老名の語りに似ている気がする(「王国」の王が天皇に、国が国体にすり替わってしまうという捉え方もあるが、そうとばかり言えないものも感じる)と。つまり、罪、悔い改め、義認という経路だけでは語り尽くせない「福音」を海老名はカバーしている(掴んでいた)のではないか、と。 

 みなさんの書き込みの中にも、海老名を評価するものがいくつかありました。 

 TSさんのコメントとそれに対する私のレスポンスを貼り付けます。 

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遅くなりましたTSです。 

海老名は、時代の変化とともに、見失っていた忠誠心をキリストに見いだしました。 
後半の証しにははっきりとした神経験が記されています。 
一方、ルターは悔い改め、良い行いから、ただ信じることによって神経験をしています。出発点は違いますが、神様は求める人には救いを与えてくださるお方だと思いました。 

ちょっとずれてますかね。 

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(藤本のレスポンス) 

TSさま 

証の後半部分をなかなか読まないのですよ。 
前半に注意が集中してしまって。後半をしっかり読むと、そういうことになるのではないでしょうか。 
「出発点は違いますが、神さまは求める人には救いを与える」とは、これこそ福音ではありませんか。 

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人が福音にふれる経路は一つではないのでしょう。 
もしかしたら植村と海老名は、相互補完的に福音を語る機会となったのかもしれません。あそこで論争をしたからより明確になった福音理解もありますが、論争故につぶされたもう一つの経路というのもあるのでしょう。 

第一週のディスカッションのテーマは、難しかったと思います。 
しかし、一歩一歩進んでいくうちに、学習づきが与えられ、「なーるほど」と一点でも会得できたら、あるいは感動できたら、それは立派な学習体験です。 

全部を理解する、覚える、なんて不可能です。もしかしたら無意味なことかもしれません。 
何かの気づきが主から与えられたら、それは本当に感謝なことですね。 
 
第2週のディスカッションは「富」と「貧しさ」、「病」と「健康」などの問題を、みなさんなりの実体験から、あるいは感想として書いていただけると感謝です。  

ありがとうございました。